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 小国も梅雨の季節となりました。この地では田植えは早くも5月に済んでおり、もう早苗が生長しつつあります。棚田のようなこの地で整然と並ぶ早苗の緑に、煙ったような雨が降り注いでおります。佐賀の地では6月が田植えの時期でした。両親が農業をやっていた30年代の頃は、この時期になると田植えの手伝いの女性達が数人泊まりで来ていました。この6月は農家にとってはもっとも忙しい時期だったのです。機械で植える現在と違い、あのころは広い田圃をすべて手植えで行っていたのです。朝早くから一日中腰をかがめての田植えの労働には子供心にも大変な仕事と思えていました。

 江戸時代の昔から、毎年毎年同じ作業が延々と続いていたのです。農家は、肉体的な重労働から解放されず長きにわたり腰をかがめていたのです。母は朝早くから田植えの女性達の朝食を作り家族の食事も作り、自分も田圃に出ていたのです。まだスーパーとかない時代に、いつ買い物に出ていつ料理をしていたのか、どういう生活をしていれば、成り立っていたのか聞いておくべきだったと悔やまれます。今は宿の料理を日田や小国の町に買い出しに出かけて作っていますが、あの重労働の中で作っていた母の料理にはとてもかないません。

 その田植えを人の手でやっていた頃の集落には蛍が手に取るように光っていました。当時の面影がすっかりなくなった、佐賀駅の北側の今の佐賀学園の周囲は田圃が広がり、川も流れ草むらの中で多くの蛍が光っていました。小さな集落のあちこちで蛍は飛び交っていました。初夏の風物として集落の子供達ははしゃぎまわって蛍を追って、捕まえては蚊帳の中で光らせていました。親の重労働をよそにのんきに遊び回っていた頃、田植えが手植えから解放され、農家の仕事が少し楽になりました。その代わり多く飛び交っていた蛍達を次第に見ることが出来なくなっていったのです。時代のすすみは人の仕事を楽にした代わりに、失うものもありました。このことが私たちは世の中の近代化と考え当然のことと受け止めていました。蛍達がいなくなるどころか、川は工場の廃液で汚れヘドロが溜まり悪臭を放ち、もちろんのこと魚たちもすべていなくなっていました。

 いなくなっていた蛍が環境問題の高まりとともに、あちこちで見られ出しました。汚れていた川に清流が戻り、魚も戻りましたが、一度消えた蛍は戻らず、佐賀で蛍を見る場合は祇園川の流れている小城まで見に行っていました。この宿で初めての梅雨を過ごすこととなり、蛍の名所が多くあるので期待はしていました。この宿の近くで蛍達が数多く飛んでるというもっと標高の高いところに住んでおられる近所の方の情報により、案内してもらって見に行きました。車の助手席の女将が歓声を上げました。私はまだ車の中で見ることが出来ませんが、降り立ったところ目を疑うばかりの蛍の乱舞なのです。
地元の人でも余り教えない蛍の名所が宿の近くにあったのです。

 蛍は淡い光を静かに明滅させています。初夏の夜に人々の胸の奥に様々なものを刻む明滅であり、大人の胸から様々なものをよみがえらせる明滅でもあります。闇夜に蛍の飛ぶ空間だけは無音の世界が現出されています。小川の流れは蛍の飛ぶ場所には必ず流れています。しかし、流れの音が聞こえないのです。無音で飛ぶ蛍の明滅に見とれてしまい、小川の流れが消えてしまい、蛍の明滅の醸し出す幽玄の世界に迷い込んでしまうためです。蛍は静かで無音のまま飛んでいます。静かな蛍ではありますが、その存在は決して小さくはありません。この梅雨の時期の季節を静かに浮かび上がらせる淡い光には、人の胸に明るさをともす大きな力が蛍には備わっているようです。

 宿には蛍は居ないと決めつけていました。しかしながら、そばを小川が流れているのでもしかしたらと、蛍見学の帰りに橋の上から真っ暗闇の宿を見下ろしたところ、数点の灯りが見えるのです。慌てるように宿におりて露天の近くの暗がりを女将と見に行くと、なんと蛍が数匹飛んでいるのです。本館のテラスからも蛍の灯りを見ることが出来たのです。まだ、数匹の蛍ですが、宿でも見られたことに女将と大感激をしました。淡い光の蛍ですが大きな存在感があるように、この宿もまだまだ淡い存在ですが、梅雨の曇り空に淡く浮かび上がるような宿を目指していきたいものです。

  24年6月18日

   古天神 井崎

 

  




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