厨房から窓一杯にコナラやクヌギの葉に生い茂った雑草が夏の焼き尽くすような日射しを受けて緑が広がっています。その下を渓流の流れの音が絶え間なく響いています。

 この宿に来て約5年が経とうとしています。この厨房に立った頃は不安が一杯でした。まず、お客様にお出しするメニューが先の方は決まっておらず、頭の中は絶えずメニュー作りで一杯でした。たぶんそのころは他のことは何も考えられず、メニュー作りのことだけを考えていたような気がします。本格的な修業をしていない身に取って、実際にお出しする料理を作ってみると、とんでもないことを始めてしまったものだと思いましたが、初めてだったからやれたかも知れないのです。もし、宿がこんなにも大変なことと知っていたらやっていなかったかも知れません。開業前に業者の方から宿は大変ですよとおっしゃた事がその当時は全く分からなかったのです。

 料理だけではなく、温泉の管理に宿泊棟のおもてなしの準備にと女将の仕事も膨大な量にのぼり、とても二人だけではやれる仕事では無かったのです。女将の仕事も誰かに教わったわけではなく二人とも見よう見まねやってきました。料理はそんなに難しい専門料理をお出しは出来ませんが、家庭料理に少し工夫をしたような味付けを心がけましたところ、お客様には大変満足を頂くようになりました。料理だけをお出しするレストランと違うところは、あくまでも宿は温泉があり渓流のせせらぎが聞こえ、林の緑に、星空に、ゆったりと出来る宿泊棟に、お客様をお迎えするおもてなしの心と、それらの中の料理も一つであると位置づけているのです。ただ、ありきたりの料理はこれからもお出ししないように心がけていくつもりでございます。

 疲れたからだと心を自然の中で癒して頂き、のんびりとくつろいでいただけることを最優先に考えておもてなしに努めましたところ、お客様には大変な好評を頂き、アンケートでもほとんど喜びのお言葉を頂き、またお客様からのクレームも一度も頂いておりません。露天風呂と料理が好きでこの宿を始めたので、露天に囲いをもうけず川のせせらぎと対岸の雑木林を堪能して頂くように作り、最近では夜の灯りを消して、天気のいい日は星空を眺めて楽しんで頂き、6月の頃は蛍の乱舞も見られるようになりました。残念ながら今年の蛍は、大雨が続き見て頂く機会を逃してしまいました。

夕方近くなると蜩が羽音を立てて鳴き出します。この宿の季節でもっともいい季節はと問われましたときに、もっとも好きな季節は新緑の頃とお答えします。もっともいやな季節は実は夏なのです。佐賀に比べたら日中は相当に気温も上がりますが、標高が700メートルほどありますので、昼間でも湿度が高くならず爽やかで、むしろ朝方は寒いときもありますが、山の中ですので虫が多くまた雑草には悩まされます。ところがいやな夏でも、いいのは夕方から鳴き出す蜩の音に宿全体が包まれることです。渓流の音を背景に夏の宵が迫る頃に蜩しぐれに包まれる宿は他の時期にも負けない季節の風物を醸し出します。この地の夏は短いのです。梅雨が終わって、お盆が過ぎるともう秋の気配なのです。そして、いつのまにか蜩のしぐれを聞かなくなって、侘びしげな晩夏の宵に変わっていきます。

28年7月27日

風のテラス古天神 井崎